『ありすとBOBO』

MW文庫という名称で括られる文章群は市場における商品の再配置=空間的リパッケージングだとして、新人賞は時間的なそれだと言いうる。ある種の種子が発芽に適した条件において彼らの実存を覚醒するように、2004年に電撃文庫から出版された『Alice』の続編であるらしい(ぼくは未読です)この作品が、およそ五年の雌伏を経て、今、著されたということは、どういうことだろう。あとがきで「あいつらおかしいから」というような「変なキャラ」が全然「変なキャラ」ではないのは、かつて特異だったデザインが読まれる状況に対して自然化したからだと言いうるとして、その環境とは何か。
サブタイトルやあらすじにある通り「マグロを巡る珍騒動」である。チャイナマフィアや荒ぶるトーキング・グリズリーBOBO(カナダ産)の存在は、トーキョーという近未来の都市が、人種から解放されたある種グローバルな場として設定されていることを示す。それでもいまだ日本であることをやめないこの空間では、マグロは日本人の文化としてのアイデンティティを付与され、「魚屋とマフィアがマグロの覇権を争う」その争いはどこかナショナリスティックな色彩を帯びる。中盤のBOBOと中国産サイボーグとの戦いで、南京大虐殺や武士道などの単語が飛び交って、相手国を貶し、自文化中心を押し付け合うのは、だから自然な成り行きだ。けれどここでは日本を代表するのがカナダから来た日本びいきのクマである、という風に狂騒には反省が差し挟まれ、最終的に、中国人を皆殺しマグロを日本の誇りとして狂信する魚屋たちウルトラナショナリストは、少女アリスによって倒される。それは彼の武器であるカジキに自らを串刺しにされての死であったから、戦いの中心というのは自壊する運命にあるわけだ。
ここでは全てが予定調和のように思える。キャラクターはマグロによって整理されるテンプレをまったく逸脱しないで、極めて凡庸に振舞う。マグロもテンプレを発動させる鍵なのだから、両者の作動は安定的でしかない。けれど、それもまた仕方がないことなんだ。一つの創作に対するその零次が容易に想定できてしまう物語の衰弱は、シシドーというテンプレを内面化したキャラによって適宜指摘・先取りされているし、もっと直接的に「オチまでわかってて面白いの?」とアリスは読者に問い掛けもする。
勿論この問いには盲点がある。アリスもまた見られるキャラクターであり完全にメタ視点に立つことは出来ない。彼女の着せ替えシーン、それは見開きのカラーページで可愛らしく描かれているけれど、本作最大の見せ場であると思う。

『絶望同盟』

絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望を絶望と呼ぶことでそこから逃れ去ることができるならば、希望を希望と呼ばない彼らはまったく正しい。名付けを拒む一つの身振りは、『ぷりるん。』から続く特色であるかもしれない。言葉は確かに殺すのだから。希望は常にイメージされる。爽快なラストは書かれる限りで希望ではない。
それぞれに孤独と絶望を抱える高校生四人が集まって、庭を作ろうとする。まず設計図が必要だ。未来を色づける想像が。スケッチブックにクレヨンで描かれるそれへ「木羽が口を挟」む――「わざわざ絵を描く必要がどこにあるんだ。場所を区切って名前を書くだけで事足りるだろう」と。この申し出は当然却下される。言葉は、名前は拒否される。そして、スケッチブックには「もう色とりどりの花が咲いていた」と、美しい庭としての希望が「描かれる」ことで小説は終わる。しかし何かが続いていくのを感じる。イラストだけではなくて。
さて。彼らが同盟を築くことができたのは、(昼飯時)それが食事中という口が塞がった状態での集まりだったからだ。言葉はいらなかった。もちろん各々の内面にはモノローグが充填している。言葉を拒否しながら言葉によって展開する物語、そこに対する自虐はあまりに歪な文章の在り方によって明示された。『ぷりるん。』にあっては音声的な次元を保ちつつ生まれては消える現在を浮き出して、時間性が尊重されていたが、『絶望同盟』の文章は異常に時間を歪めていく。たとえば、44ページの「この一秒はふだんの一秒とはまるで異なっている」という宣言の下に展開するネンジの煩悶は、書き言葉のように自省され、外的な事象を排除し自己完結するまで論理が重ねられる。(蓮井が)教室に行って戻ってくるまでという限られた時間に対して、長すぎる思考の明らかな異常さは、書くことによってしか書けないことを戯画的に演出することで、小説に抵抗している。生起する感情をその都度名付けることでキャラクターの内面を書くという方法論は、その極点としてのキャラの特徴がロリコンなどと、否定的に受け止められることで脆さを敢えて曝す。言葉は傷つける道具でしかない。直接的には。そう、これは小説ではなくライトノベルだった。
だから挿絵は、テキスト内部で実際に起こったことの描画ではなく、何か暗示された、先にある希望のイメージとして。言葉を書かないこと、それをこそ書くこと。その方法をぼくは希望とは呼ぶまい。

『ココロコネクト ヒトランダム』

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

なぜこのイラストなのか。あまりに他作品を喚起させる挿絵によって、ある種二次創作のような立場になって(オリジナリティが浮動することで)初めて本書が手に取られるとしたら、この小説の戦略は大概成功しているだろう。存在しない挿絵を夢想して文章を書く投稿作=新人賞受賞作という場で起きた一つの戦争、ラノベの本文vsイラスト、それはやがてキャラとは何かという問いにちかづく。
文化研究部というはぐれ者のコミュニティの五人に起こった人格交代という事件は、実は物語の本筋にはそれほど影響しない。ただ人のためになりたい主人公が、ヒロインたちのトラウマ(トラウマを抱えたヒロインたち?)を次々と救っていく、完成された所与の構造をなぞる前半はいささか退屈ながらも、そこで蓄積される描写…高校生の青春やその繊細な心情を積み重ねることで、ラストは確かに感動的だ。めでたし、めでたし?
しかし、文化研究部というほとんど無目的に与えられたコミュニティだけでは、これらの物語は始まらなかった。「ココロコネクト」には「ヒトランダム」が必要だった。というならば、空気や部室といった風な、人と人が集まるだけで何か(たとえば恋愛にも似た)関係性が織り上げられていくという前提が、いまはすでに成り立たない――そんな地点から、本作はスタートを切る。かつてありふれていた物語を今新しく始めるために……その一つの装置として人格交代ヒトランダムを見てみると、他にもさまざまな優れた機能があるのが分かる。
先ほどぼくはトラウマとか心情とか書きました。これらの概念ははたして今なお有効だろうか。もっとエロエロなシーンを期待しているんじゃないのか、たとえば過激なカラーイラストとか(『れでぃ×ばと』のアニメ面白いです)。キャラクターデザインの肉体的な特性のようなものが顕著なとき(おっぱいの大きさなど。貧乳派ですが)、ヒロインや萌えは視覚化され、身体に付随することになるだろう。ここでささやかな心の襞のような繊細さは、まったく無効であるように思う。あるいは、イラストに対するテキストの無能力がある。
ヒトランダムは、内面(意識・ココロ・人格、キャラ)を身体(肉体・視覚・萌え、キャラ)から遊離し独立させる。同時に固定される視点=内面は身体を高速度で流通させることになるだろう。人格交代/身体交換は同じ現象でありながら、価値づけの仕方が異なり、この作品ではココロの肉体に対する優位をその都度構築しているように見える。キャラクターとは見えるものではなく見えないものなんだ、という主張は、トラウマや心情の価値をも救済しているように感じられるし、その成功がラストの感動を担保する。独立した内面は共通パートを経ずしてヒロインのトラウマにアクセスすることを可能とし、そこで噴出する心の傷は、性別された肉体や領土としての肉体というような問題意識にまとまっている。それはヒトランダムという契機から始まった物語としての倫理でもあるが、敢えてココロと肉体の対立の一様相とみたい。
ここで、ココロとは心情描写によって一瞬一瞬浮き出されるキャラの同一性の保障として、そして肉体とは身体的記号的特徴やイラストなどにおける視覚的類似とすれば、無力な文章のイラストへの下剋上、見えるものの流通を組織する見えないココロを書くテキストの復権が試みられているように思う。
そしてこの試みは、あらゆる何々っぽさに対して発動し、まさにこのイラストにおいて最大限活かされている。イラストの持つ効果は随所で否定されるが、それもまた最初から何かのコピーであったとすれば、否定されるのはコピー概念であるのだし、その「何か」はむしろ再生する『ココロコネクト ヒトランダム』のキャラクターたちだ。

『空色パンデミック』

空色パンデミック1 (ファミ通文庫)

空色パンデミック1 (ファミ通文庫)

「――世界を守るか。君を守るか。」いまさらこんなことを言うのも恥ずかしいけれど、ぼくは君を守るために、作品世界を再構成しよう。空想をオーバードライヴして、テクスト内選択肢を誤作動させる。青井晴を全肯定する。そんな天地創造型空想病患者がぼくだ。
自己完結型を発病している仲西景の証言なんて信じない。「セカイ系」に憧れる景にとって、主観では認識できない叙述の都合のよさ(特に6章)はベタな中二病的振る舞いでしかない。そう、空想病というのはまさに「メタ中二病中二病」だった。そして「この作品はメタ中二病だ」と言うこともまた中二病であるのだから、以下略、せめてセカイ系は一つの「物語素=記号」として代入される要素にすぎないと言えば十分だ。それは要素であり全体ではなく、断片は軽やかに転移する一過性のストレスだった。空想病を内包する空想病というのは非常に自然な流れ。
とはいえ、セカイ系に関する省察から開始される本田誠のモノローグには、反復されてある物語への抵抗が空想されている。これが現代ライトノベルの不可能性だった。それでもなお語るとき、物語に対するクールな距離感が表明される。最も鮮やかに示されるのは、269ページから始まる景の叫びにおいてだろう。そこでは、ピエロ・ザ・リッパーという空想キャラクターを強化する方法として「物語ること」が選択される。新しく物語を作りだすことで歴史を再=創造して自らが演じるキャラクターを強化する。まさに生き生きと語ることの可能性を実践しているようだ。しかし、この一種の自己暗示は、

僕の言葉を耳にした結衣さんの中で、新設定が補完された証だ。(271ページ)

と、他者を媒介にしている。「あれほど待ち焦がれた」セカイ系の主人公になっている景のモノローグは、明らかに自己完結型空想病である。そして、他の女の子の空想に付きあっているだけだ、と免罪される。上の引用は、信用できない語り手の自慰正当化でしかない。全部ウソだ。自家発電的な強化の物語は、伝達を奪われ単なる一つの物語素に成り下がる。プロットのような設定は肯定されるが、それを誰かに伝え理解してもらえる回路は遮断されている。物語の不可能性は、ここでは物語ることの不可能性として顕著に現れた。
そして空想による強化は相手の弱体化で相対的に成功するのだから、自然とごっこ遊びに付き合ってくれる大人の存在が前景する。「おれはおれだ」と自ら傷ついて主張するのではなく、「ねえ、ぼく? ぼくはぼくだよ」と囁く声が響く。未分化な状態。空想病患者は大人が保護している。


さて、そういえば、ぼくは青井晴に萌えていた。これは空想だった。そろそろフラグもたったと思う。青井との個別イベントの描写に移りたい。
『神奈川の惨禍』が晴の全てを奪った。トゥラウム波の「雷撃」は人間の心をぶっ壊す。空想病は危険だ。それが露出した。けれどこの事件は、実際はインフルエンザ/現実的な病がトリガーだった。空想病はリアルに敗北する(つまり天地創造型空想病の存在は景の空想である)。
彼が女装しているか女装していないか、というのは、関係ない。大切なのは、景へ告げられる一つの断定が晴ではない大人たちによってなされ、彼は友人ではなく大人を信じたということだ。空想で二人はキスをする。景は大人を信じるが、迂回はほどかれず、空想は抵抗をやめない。「男とキスするのは初めてだったよ」
セカイ系の再演による穂高結衣との表面上の恋愛は空想病による相互自慰でしかなかった。それゆえ恋愛の可能性を夢見られながらもひたすら恋愛不可能な対象として描かれる青井晴は、だからこそ空想病患者にとっては同一化ではない他者との恋愛が可能な真のヒロインとして生きる。結衣を選ぶことで(晴が選ばれないことで)空想病は恋愛を否定する。そこで、遡行して晴が再選択された。『空色パンデミック』のメインヒロインは青井晴だ。
「空色?」

『幕末魔法士』

幕末魔法士―Mage Revolution (電撃文庫)

幕末魔法士―Mage Revolution (電撃文庫)

多く裏切られてきた受賞作の後の新作を読む限り、新人賞とは、受賞する側のポテンシャルを発掘するのではなく、受賞させる側の態度表明であるのは明らかで、それが電撃大賞のばあい、ライトノベル的なものの概念を向こう一年更新するいつもの行事みたいなもので、だからなんとなくこれで流行みたいなのが分かった気になるのは、まあ仕方ないし、ぼくもそう思っています。けれど、同じ応募作のプールから、電撃文庫/MW文庫という峻別が為されることで、今回は、より一層現代性を照射しているはずだ、なんて。
大賞はオーソドックスなファンタジー、幕末を舞台に、魔法士と剣士が共に手を取り合い、陰謀渦舞く混沌の世を駆け抜けていく、そんな話。安定した時代描写や輸入されてきた西洋魔術の設定などは、おちついた感じで、それでいて退屈ではないし、いざとなる戦いも魔法と剣術が入り乱れてなかなか楽しい。登場人物も地に足付いた人間味で、むしろ派手さがない分いっそう魅力的だ。もっと活躍するところが見たいと、素直に思う。時代がかった台詞回しはちょっと読むのが面倒だけれど、すごくかっこよく響くところがある。堅実かつ良質なファンタジーだと思う。面白かった。イラストも素晴らしい。
でもどうして幕末なのか。主人公、久世伊織は幕末を体現している。西洋文化に身を浸していること、父親の失政によって冒険を余儀なくされていること。ファンタジー言語が輸入される瞬間と政情不安定による戦いの正当化。異世界や現代に登場するならばとっくに疲弊しているはずの言語は新鮮に輝き、また、勧善懲悪は殺陣に爽快感を与える。陳腐化したものを回復する幕末という時代は、超成功してると思う。
だから幕末ファンタジーの現代性は、むしろ今現在ファンタジーにとっては、まさに概念輸入の瞬間――それは、文化の混淆や革命の時代――という特殊な空気を呼び戻さなくては、リアリティもなにもなくなってしまったということを、たくさんの競合作の中から勝ち抜くことで証明したことにあるだろう。
背景に大きなダイナミズムを持つこの作品は、シンプルな構成ながらも力強い。

『ヴァンダル画廊街の奇跡』

ヴァンダル画廊街の奇跡 (電撃文庫)

ヴァンダル画廊街の奇跡 (電撃文庫)

作品はコンテクストから自由になることが出来ない。つまりこれはライトノベルであり、ライトノベルであり、最もライトノベルであるということ。正しくは、第16回電撃大賞という特殊な場――境界を再設定する――において金賞を受賞した『ヴァンダル』は、ラノベの現代性のようなものを過剰に付加されている。たとえば、新しい(セカイ系とは別の仕方で)ロマンチックなテロリズムであるとか、文体のない光学的な描写は堅実であるとともに紀行っぽさを出してもいるし、そして古典的な抑圧体制は、実は現代的とも言えるのではないか……などなど。けれど現在時刻を確かめてみれば、こんなのどれも些細な事だ。

さて、今日のライトノベルの問題は、近代小説の出発点と同期する物語ることの一つの挫折が、弁証法的改造に改造を重ね、その崩壊すらもまた崩壊し、もはや沈黙するしかなくなった更にその後、名指された無声が余白への注釈の高速化によって多段脱皮を繰り返し、いまや剥き出しになった不可能性をいかに乗り越えるかに賭けられているのだ、とさしあたり言うことができるとして、ではすでに物語られてしまった諸作品において、それら格闘として一体なにが起こっているのか注視することは、おそらくライトノベルを読むことと共にある。

芸術に、その自由を!――芸術が規制される世界……ヴァンダルと呼ばれるエナたちが、人々の「心の中の絵」を封鎖された美術館から盗み見し、街に大きく描きだす。前半部は、クリムトゴッホなど実際の絵画とそれにまつわる話が、収蔵された美術館のある街の光景と混じり合いながら進行する連作短編。堅実で映像的な風景描写や現実に存在する絵画の来歴などをしっかりと書きこむことで成立するリアルさは物語の快楽には本質的に寄与しない。これらは物語へではなく、すべて、エナという一人のキャラクターに奉仕することになる。

ところであまり有名ではありませんがレナード・ウィンズベルという画家がいます。彼が遺した「人は誰もが、心の中に一枚の絵を持っている」という言葉は『ヴァンダル画廊街の奇跡』という小説のエピグラフに掲げられていますし、このことから半ば自然に、彼の晩作「ノートルダムの凱旋」はクライマックスの章に選ばれるのですが、これには二つの意味があります。その一つは(あるいはこちらこそが隠された理由かもしれませんが)彼の作風がいわゆるフォトリアリズムみたいなもの(作中では転写眼という用語で味付けされています)であることです。これはヴァンダル(そして『ヴァンダル画廊街の奇跡』)にとって絵画とは何かといった問題と密接に関係し、つまり実際の絵画を拡大し複製しスローガンとする彼らにとって、絵画とは映像的なものだ、イメージだという思想を同時に主張していることでもあります。それゆえ、「ノートルダムの凱旋」というまさしく超映像的作品を中心として構成されるこの物語は、他の巨匠の作品をいわば踏み台にすることで、現実と対応するものとしての映像・イメージの価値上昇と絵画の物質性の軽視といったようなことを、まずはおこなっています。
では一体、なぜこのような主張をしなくてはならなかったのか? というのが、まさになぜ物語るかと密接に結びついたという点で、まさしくこの作品は優れて現代ライトノベルの傑作であるわけですが、それには、あとがきから作者の言葉を引いてみます――

誰かの心の中に、新たな一枚の絵を生み出すきっかけを与えられたなら。少なくとも、私がこの話を書いた意味はあるのだと思います。

新たな一枚の絵、それはおそらく「恵奈」と題されたひとりの少女の肖像、リアリズムを越えたリアリズムをその作風とする父親が描いた娘の生き生きとした笑顔、それはイメージから復元される実体を、入れ子として挿絵で示される「恵奈」をまなざす読者の心の中にインストールすることになるだろう。物質性の失墜は周到に仕掛けられてきたのだったし、そして、一枚の絵に導くために組織された物語は破り捨てられ、あらゆるリアリズムの先に少女が佇むのを、ぼくたちは、ただ、エナちゃん可愛いね。

『今日もオカリナを吹く予定はない 2』

今日もオカリナを吹く予定はない2 (ガガガ文庫)

今日もオカリナを吹く予定はない2 (ガガガ文庫)

何かにノンを唱えるには、まずは身振りを真似なくてはならない。アンチ学園異能の企て……時限爆弾が付いた校舎の完成。極度に抽象化されたキーワード、巧妙な設定はやがて構造/テンプレに感染し歪ませて新しい風景を見せた。敵は味方同士の交通を組織し整理するために登場し退場、彼はまた、すれ違いの可視化だった。コミュニケーションの不可能さをなくすためには条件を満たし他者を受け入れろ。主人公の視点は固定されている、カラー絵を見れば分かることだ。一巻、二巻共に完璧な構図の反復がなされていた。そこを矯正/共生する条件だった。学園異能?今や別の存在だ。ならば何?あるいは何だった?曖昧な物語の起点は、物語の終わりに差し挟まれる唐突な再会で描かれる。二回目の/初めての/出会いにおいて、欠けたままだったパズルの中心が与えられた、それは学園異能ではなかった、「だってほら、エビマヨ君随分とヒマそうにしてるから」。寂しそうな人を部活へ誘う「オカリナ部」部員は変人だらけ「人は、誰しも見えない敵と戦っているんだよ」コミュニケーションの不可能性、不可視の軋轢、システム上の生きにくさ、それが死角だった。他者との間隙に巣食っていた。条件を満たさなくては気付くことすら出来なかった。裸になれば付き合えた。「俺はロリコンだ」学園異能と思っていたものが、最後の最後で実は高校生が友達をつくる話に変身した。実は読者と語り手の間にも死角が存在する「そう、俺はむっつりスケベである」これが条件だ、最初の一行を読むことでようやくぼくは本を読むことができる/そのことに読み終わってから気がつく……
さて、ところが二巻は一巻の用語解説でしかない。一巻が優秀すぎた。死角が黒幕化しないシステムに付随する遍在的抑圧であることや、条件がまさにコミュニケーションツールでしかないこと(ただし二巻では藤村が恋愛中心となっている)、世界が箱庭であることなどが補強しつつ描かれたが、そんなこと、一巻を読めばすでに書いてあるのだから。
けれどラストはさすがという感じ。