『空色パンデミック』

空色パンデミック1 (ファミ通文庫)

空色パンデミック1 (ファミ通文庫)

「――世界を守るか。君を守るか。」いまさらこんなことを言うのも恥ずかしいけれど、ぼくは君を守るために、作品世界を再構成しよう。空想をオーバードライヴして、テクスト内選択肢を誤作動させる。青井晴を全肯定する。そんな天地創造型空想病患者がぼくだ。
自己完結型を発病している仲西景の証言なんて信じない。「セカイ系」に憧れる景にとって、主観では認識できない叙述の都合のよさ(特に6章)はベタな中二病的振る舞いでしかない。そう、空想病というのはまさに「メタ中二病中二病」だった。そして「この作品はメタ中二病だ」と言うこともまた中二病であるのだから、以下略、せめてセカイ系は一つの「物語素=記号」として代入される要素にすぎないと言えば十分だ。それは要素であり全体ではなく、断片は軽やかに転移する一過性のストレスだった。空想病を内包する空想病というのは非常に自然な流れ。
とはいえ、セカイ系に関する省察から開始される本田誠のモノローグには、反復されてある物語への抵抗が空想されている。これが現代ライトノベルの不可能性だった。それでもなお語るとき、物語に対するクールな距離感が表明される。最も鮮やかに示されるのは、269ページから始まる景の叫びにおいてだろう。そこでは、ピエロ・ザ・リッパーという空想キャラクターを強化する方法として「物語ること」が選択される。新しく物語を作りだすことで歴史を再=創造して自らが演じるキャラクターを強化する。まさに生き生きと語ることの可能性を実践しているようだ。しかし、この一種の自己暗示は、

僕の言葉を耳にした結衣さんの中で、新設定が補完された証だ。(271ページ)

と、他者を媒介にしている。「あれほど待ち焦がれた」セカイ系の主人公になっている景のモノローグは、明らかに自己完結型空想病である。そして、他の女の子の空想に付きあっているだけだ、と免罪される。上の引用は、信用できない語り手の自慰正当化でしかない。全部ウソだ。自家発電的な強化の物語は、伝達を奪われ単なる一つの物語素に成り下がる。プロットのような設定は肯定されるが、それを誰かに伝え理解してもらえる回路は遮断されている。物語の不可能性は、ここでは物語ることの不可能性として顕著に現れた。
そして空想による強化は相手の弱体化で相対的に成功するのだから、自然とごっこ遊びに付き合ってくれる大人の存在が前景する。「おれはおれだ」と自ら傷ついて主張するのではなく、「ねえ、ぼく? ぼくはぼくだよ」と囁く声が響く。未分化な状態。空想病患者は大人が保護している。


さて、そういえば、ぼくは青井晴に萌えていた。これは空想だった。そろそろフラグもたったと思う。青井との個別イベントの描写に移りたい。
『神奈川の惨禍』が晴の全てを奪った。トゥラウム波の「雷撃」は人間の心をぶっ壊す。空想病は危険だ。それが露出した。けれどこの事件は、実際はインフルエンザ/現実的な病がトリガーだった。空想病はリアルに敗北する(つまり天地創造型空想病の存在は景の空想である)。
彼が女装しているか女装していないか、というのは、関係ない。大切なのは、景へ告げられる一つの断定が晴ではない大人たちによってなされ、彼は友人ではなく大人を信じたということだ。空想で二人はキスをする。景は大人を信じるが、迂回はほどかれず、空想は抵抗をやめない。「男とキスするのは初めてだったよ」
セカイ系の再演による穂高結衣との表面上の恋愛は空想病による相互自慰でしかなかった。それゆえ恋愛の可能性を夢見られながらもひたすら恋愛不可能な対象として描かれる青井晴は、だからこそ空想病患者にとっては同一化ではない他者との恋愛が可能な真のヒロインとして生きる。結衣を選ぶことで(晴が選ばれないことで)空想病は恋愛を否定する。そこで、遡行して晴が再選択された。『空色パンデミック』のメインヒロインは青井晴だ。
「空色?」