『ヴァンダル画廊街の奇跡』

ヴァンダル画廊街の奇跡 (電撃文庫)

ヴァンダル画廊街の奇跡 (電撃文庫)

作品はコンテクストから自由になることが出来ない。つまりこれはライトノベルであり、ライトノベルであり、最もライトノベルであるということ。正しくは、第16回電撃大賞という特殊な場――境界を再設定する――において金賞を受賞した『ヴァンダル』は、ラノベの現代性のようなものを過剰に付加されている。たとえば、新しい(セカイ系とは別の仕方で)ロマンチックなテロリズムであるとか、文体のない光学的な描写は堅実であるとともに紀行っぽさを出してもいるし、そして古典的な抑圧体制は、実は現代的とも言えるのではないか……などなど。けれど現在時刻を確かめてみれば、こんなのどれも些細な事だ。

さて、今日のライトノベルの問題は、近代小説の出発点と同期する物語ることの一つの挫折が、弁証法的改造に改造を重ね、その崩壊すらもまた崩壊し、もはや沈黙するしかなくなった更にその後、名指された無声が余白への注釈の高速化によって多段脱皮を繰り返し、いまや剥き出しになった不可能性をいかに乗り越えるかに賭けられているのだ、とさしあたり言うことができるとして、ではすでに物語られてしまった諸作品において、それら格闘として一体なにが起こっているのか注視することは、おそらくライトノベルを読むことと共にある。

芸術に、その自由を!――芸術が規制される世界……ヴァンダルと呼ばれるエナたちが、人々の「心の中の絵」を封鎖された美術館から盗み見し、街に大きく描きだす。前半部は、クリムトゴッホなど実際の絵画とそれにまつわる話が、収蔵された美術館のある街の光景と混じり合いながら進行する連作短編。堅実で映像的な風景描写や現実に存在する絵画の来歴などをしっかりと書きこむことで成立するリアルさは物語の快楽には本質的に寄与しない。これらは物語へではなく、すべて、エナという一人のキャラクターに奉仕することになる。

ところであまり有名ではありませんがレナード・ウィンズベルという画家がいます。彼が遺した「人は誰もが、心の中に一枚の絵を持っている」という言葉は『ヴァンダル画廊街の奇跡』という小説のエピグラフに掲げられていますし、このことから半ば自然に、彼の晩作「ノートルダムの凱旋」はクライマックスの章に選ばれるのですが、これには二つの意味があります。その一つは(あるいはこちらこそが隠された理由かもしれませんが)彼の作風がいわゆるフォトリアリズムみたいなもの(作中では転写眼という用語で味付けされています)であることです。これはヴァンダル(そして『ヴァンダル画廊街の奇跡』)にとって絵画とは何かといった問題と密接に関係し、つまり実際の絵画を拡大し複製しスローガンとする彼らにとって、絵画とは映像的なものだ、イメージだという思想を同時に主張していることでもあります。それゆえ、「ノートルダムの凱旋」というまさしく超映像的作品を中心として構成されるこの物語は、他の巨匠の作品をいわば踏み台にすることで、現実と対応するものとしての映像・イメージの価値上昇と絵画の物質性の軽視といったようなことを、まずはおこなっています。
では一体、なぜこのような主張をしなくてはならなかったのか? というのが、まさになぜ物語るかと密接に結びついたという点で、まさしくこの作品は優れて現代ライトノベルの傑作であるわけですが、それには、あとがきから作者の言葉を引いてみます――

誰かの心の中に、新たな一枚の絵を生み出すきっかけを与えられたなら。少なくとも、私がこの話を書いた意味はあるのだと思います。

新たな一枚の絵、それはおそらく「恵奈」と題されたひとりの少女の肖像、リアリズムを越えたリアリズムをその作風とする父親が描いた娘の生き生きとした笑顔、それはイメージから復元される実体を、入れ子として挿絵で示される「恵奈」をまなざす読者の心の中にインストールすることになるだろう。物質性の失墜は周到に仕掛けられてきたのだったし、そして、一枚の絵に導くために組織された物語は破り捨てられ、あらゆるリアリズムの先に少女が佇むのを、ぼくたちは、ただ、エナちゃん可愛いね。