『ギャルゲーマスター椎名』

ギャルゲーマスター椎名 (電撃文庫)

ギャルゲーマスター椎名 (電撃文庫)

ライトノベルの父とは何か少し考えてみる。これまでいくつか書かれたライトノベルについてのライトノベルの中で、主人公であるところのラノベ作家の父親は大物文芸作家であったり英文学者であったりした(えでぃっと、三流木萌花)。ライトノベルは文学を乗り越える。ライトノベルと文学との対立をさしあたり自明としたところに、『ラノベ部』で描かれた、堂島による日本文学研究会に対する攻撃も機能するのだろう。
しかしライトノベルと文学を切り離して考えるのはつまらない。どこか反抗期めいてもいる。ちょうど堂島の龍之介へのべったりとした依存の、その幼さのように。ひどくつまらないことだ。下らないフレームは捨てなくてはいけない。
ライトノベルの父とはギャルゲーであり、『俺妹』が迂回した父としてのギャルゲーを肯定すること、つまり、父親が有名ギャルゲー製作者であることを理由に、ギャルゲーマスターと名付けられギャルゲーを憎むようになった主人公が、ギャルゲー部の少女たちと共にギャルゲーをプレイし作っていくなかでギャルゲー=父を肯定する、そんな作業が必要だ。『ギャルゲーマスタ椎名』はまずはそのような話である。
そしてこの作品において、ギャルゲーの模倣はギャルゲーであり、ライトノベルの模倣はライトノベルである(『ギャルゲヱの世界』では、ギャルゲーの模倣がライトノベルの模倣であったことを思い出そう)。それは奇跡的なことなんだ。
あらすじ、キャラクター、属性、シーンなどの要素は構造に積極的に組み込まれ差異を最大化しようとする。それら無数のパラディグムが煌めき、ギャルゲー制作のライトノベルは選択肢を持つだろう。そして彼はいつだって選択を迫られている。ヒロインの容姿を決めることは部室の中の少女を選択することであり、シーン作りのためにシナリオを演じることで好感度はアップする。それはギャルゲーと同じように。あるいは彼に選択肢はなかったかもしれない。彼は選ばされ、そしてむしろ選ばれたのだから。ヒロインによる逆選択肢、それはたとえば彼が何をするか賭けることで少女が彼を選んでいたように、選択肢は事後的に形成されてもいた。彼は何もしなかったのかもしれない。ギャルゲー主人公が何もしないように。プレイヤーの存在を思い出す時だ。
彼はギャルゲーマスターであり、俺はライトノベル読者であり、ギャルゲーマスターはギャルゲーを読むことしかできずそれは俺とまったく同じであるのだから、ぼくもあのように言ってみたい「おれを誰だと思ってるんですか? ギャルゲーマスター椎名ですよ?」部室という空間で消去された無為なる主体は、ただ共に読むことで肯定される。