『ココロコネクト ヒトランダム』

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

ココロコネクト ヒトランダム (ファミ通文庫)

なぜこのイラストなのか。あまりに他作品を喚起させる挿絵によって、ある種二次創作のような立場になって(オリジナリティが浮動することで)初めて本書が手に取られるとしたら、この小説の戦略は大概成功しているだろう。存在しない挿絵を夢想して文章を書く投稿作=新人賞受賞作という場で起きた一つの戦争、ラノベの本文vsイラスト、それはやがてキャラとは何かという問いにちかづく。
文化研究部というはぐれ者のコミュニティの五人に起こった人格交代という事件は、実は物語の本筋にはそれほど影響しない。ただ人のためになりたい主人公が、ヒロインたちのトラウマ(トラウマを抱えたヒロインたち?)を次々と救っていく、完成された所与の構造をなぞる前半はいささか退屈ながらも、そこで蓄積される描写…高校生の青春やその繊細な心情を積み重ねることで、ラストは確かに感動的だ。めでたし、めでたし?
しかし、文化研究部というほとんど無目的に与えられたコミュニティだけでは、これらの物語は始まらなかった。「ココロコネクト」には「ヒトランダム」が必要だった。というならば、空気や部室といった風な、人と人が集まるだけで何か(たとえば恋愛にも似た)関係性が織り上げられていくという前提が、いまはすでに成り立たない――そんな地点から、本作はスタートを切る。かつてありふれていた物語を今新しく始めるために……その一つの装置として人格交代ヒトランダムを見てみると、他にもさまざまな優れた機能があるのが分かる。
先ほどぼくはトラウマとか心情とか書きました。これらの概念ははたして今なお有効だろうか。もっとエロエロなシーンを期待しているんじゃないのか、たとえば過激なカラーイラストとか(『れでぃ×ばと』のアニメ面白いです)。キャラクターデザインの肉体的な特性のようなものが顕著なとき(おっぱいの大きさなど。貧乳派ですが)、ヒロインや萌えは視覚化され、身体に付随することになるだろう。ここでささやかな心の襞のような繊細さは、まったく無効であるように思う。あるいは、イラストに対するテキストの無能力がある。
ヒトランダムは、内面(意識・ココロ・人格、キャラ)を身体(肉体・視覚・萌え、キャラ)から遊離し独立させる。同時に固定される視点=内面は身体を高速度で流通させることになるだろう。人格交代/身体交換は同じ現象でありながら、価値づけの仕方が異なり、この作品ではココロの肉体に対する優位をその都度構築しているように見える。キャラクターとは見えるものではなく見えないものなんだ、という主張は、トラウマや心情の価値をも救済しているように感じられるし、その成功がラストの感動を担保する。独立した内面は共通パートを経ずしてヒロインのトラウマにアクセスすることを可能とし、そこで噴出する心の傷は、性別された肉体や領土としての肉体というような問題意識にまとまっている。それはヒトランダムという契機から始まった物語としての倫理でもあるが、敢えてココロと肉体の対立の一様相とみたい。
ここで、ココロとは心情描写によって一瞬一瞬浮き出されるキャラの同一性の保障として、そして肉体とは身体的記号的特徴やイラストなどにおける視覚的類似とすれば、無力な文章のイラストへの下剋上、見えるものの流通を組織する見えないココロを書くテキストの復権が試みられているように思う。
そしてこの試みは、あらゆる何々っぽさに対して発動し、まさにこのイラストにおいて最大限活かされている。イラストの持つ効果は随所で否定されるが、それもまた最初から何かのコピーであったとすれば、否定されるのはコピー概念であるのだし、その「何か」はむしろ再生する『ココロコネクト ヒトランダム』のキャラクターたちだ。