『俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長』

俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長 (電撃文庫)

俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長 (電撃文庫)

「……兎沢紅太郎は、お前の近くに張り付いて良い思いをしていた――ちっぽけなコバンザメということには変わりないだろう?」
「ッ!! 貴様に何がわかるッ、魔王ぉぉぉぉおおおッッッ!!」
(p259)



書かずとも書け、読まなくとも読めてしまうこと、それがライトノベルの特権性を組織する。ぼくたちは日々ライトノベルについて大いに語る。作品名が属性がキーワードが目の前を駆け/抜け/て/いく/速度の快楽。時に拾いあるいは投げかけ、退屈することなく。積読は機能する。しょせん読まずとも語れる程度のことを、それでも稚拙に繰り返す心地よさがあるのは認める(それがライトノベルのルールであることは改めて確認するまでもないことだ)。たとえば、この作品はバカテスのパクリである、というのは容易い。パクっていないはずがない。でも、そんなことは読まなくてもわかる。そして当然この作品はバカテスのパクリではない。そんなことは読めばわかることだ。(けれどこのことは作品を読まずにバカテスのパクリであるともっともらしく口にすることをなんら否定しない。読まずに読むことはライトノベルの特権的な楽しみ方であるから、それはとてもとても楽しいことだ)

さて、俺も彼女も魔王も勇者も、そして生徒会長も、すべてがありふれた、どこにでもある陳腐な主題と言うほかない。凡庸だ。人間と人外の共存を目論むこの「試験校」では、魔王生徒会と勇者生徒会により人間と人外の対立が代表され、それがさらに魔王と勇者の闘いへと中心化されている。しかし、ほんらい人外がつとめる魔王役に人間である兎沢紅太郎が選ばれるという冒頭の時点で、端から人間と人外の対立は無効になっている。それでもなお人間と人外との対立を偽装するときに要請されたイジメが(仮構の対立を実質的に必要とせずに)極めて生徒会的に解決されたのを鑑みれば、すでに魔王も勇者も虚構の対立軸でしかない。あるいはとりあえず対立を捏造するのに勇者/魔王は限りなく適切だった。そして、引き続き物語は紅太郎とその幼なじみにして勇者である少女・伏城野アリスとの関係を描いたラブコメとなる――「俺と彼女は生徒会長」みたいな。
けれども闘いはなお残存する。ならばいまや人間と人外の、すなわち勇者と魔王の闘いではありえないこの闘いはいかなる闘いへと移り変わったか。ここで作品は戦略的に姿を変える。バカテスの明示的なパロディ(団結と気絶という技法)や、「何事も形から入れ」といった章題に見られるライトノベルやテンプレへの負い目は当然その革命のために組織されたものだ。ライトノベルを挑発し、そして何よりバカテスをこそ乗り越えるために。その試みをひとまずは「外された関節を正しく嵌めなおすこと」と呼べるが、事態はそれほど単純ではない。
さてところで、彼らは一体何ものだったか? アリスは容姿端麗・成績優秀・スポーツ万能の完璧超人であるが、紅太郎はどこにでもいる量産された凡人である。

「このやろーッ! よりにもよって俺は量産型とでも言いたいのか!?」
「量産型をバカにしないでよね! 量産型には量産型の良さがあるんだから! 全国の量産型に謝りなさい!」(44ページ)

もっとも紅太郎が量産型である程度にアリスも量産型ヒロインであり、それは設定も物語も何から何まで量産型であるこの凡庸な作品では無理もない。引用はあまりに自己言及として読めてしまう。哀川譲は量産型・凡庸な書き手であるが、それでもなお面白いものが書けると、ここで彼は自己主張するわけだ。そしてこのあまりに正しい絶叫は完遂されることになるだろう。
ゆえに闘いは凡人と天才との闘いとして設定し直された。凡人・紅太郎は天才・アリスと闘う。凡人・哀川譲は闘いを挑む。言うまでもなく、バカテスに、つまり井上堅二という名の同世代的天才に――
勝ち目のない闘いだろうか。そうだろう、だって「ケンカ成績は全戦全敗」。「だが、負けない。負けられない」のだ。ならばいかにして闘うか。「俺の強み――それは経験則」。彼は計算する、彼は先回りする、彼は伏線を張る。「将棋のように相手の行動を」先読みして、「凡人の俺では足元にも及ば」ないアリスに「渡り合えている」。……将棋のように?
哀川譲は計算する、先回りする、伏線を張る。

 おっかしいなー。慣れれば結構できるんだけどなー。脳内将棋。 (p37) 
 ・
 俺の目線がアリスのやけに膨らんでいる胸元を捕らえる。こうして下から見てみると、改めてすくすくと育ってきたアリスの成長具合が理解でき―― (p151)
 ・
 「痛たたたたたぁッッ!! ちょっ、まじギブギブ! 肩の関節が外れちまう……!?」 (p67)

あらゆる描写が伏線となる。紅太郎の将棋の強さは逆転への賭けであり、ギャグで外された関節はわざと脱臼しやすくするためであり、アリスの成長する胸はバックホックののブラを着けさせるためだった。下らない描写など一切存在しない。第三話タイトルはいう、「大切なものはそれを失うまで気付けない」。すなわち、これから失わせる大切なものを、それと気付かれないように日常に偽装して配置すること。
紅太郎は仲たがいしたアリスの些細なセリフを、過ぎ去った日常を回想した。いや、回想するのではない。大切なものとして回想されるために、先回りしてアリスは発話した。そんな構成され演出された日常。
哀川譲はリンクを張り巡らす、あらゆる文章を有機的に結合する。関係のない文章など配置される意味がなく、計算や先読みが作品を覆い尽くしている。絶対安全物語主義者。そしてこれは凡人・紅太郎の闘い方でもあった。「十年以上も彼女とケンカしてきた経験がある。その積み重ねにより、俺にはアリスが次に起こす行動が手に取るようにわかった」。いまや紅太郎である哀川にとって、これはこのようにパラフレーズすることができるだろう。ラノベを多く読んできたその経験の積み重ねによりラノベを書くのだと。
バカテスではただギャグのためだけに外された関節を、常に伏線として物語の文脈に嵌めなおすこと。哀川の試みは、瞬間的な勢いのまま破裂したバカテスへの応答であることは間違いない。天才であることを諦め、凡人として凡庸な言葉を紡いでいくことで……。でも、

(……)思ってもいないことを言うのは、こんなにも難しいなんて考えたこともなかった。
 だが、俺は続けなければならない。
 続けなければ、ならないんだ。(p258)

続けなければラノベは書けない。彼はそのようなことを書き切った。美しい、素晴らしい達成と言わざるを得ない。
けれどまだ、それだけでは終わらなかった(あるいは始まらなかった)。「外された関節を正しく嵌めなおすこと」、これはいささかの迂路を経る。「第16回電撃小説大賞最終選考作」すなわち、「バカテス」を批判継承する作品(<ファミ通文庫>)を<電撃大賞>としては<否認>しながらも<電撃文庫>に取り込もうとする権力的磁場に巻かれた作品であるという程度の。けれどこんなの瑣事の瑣事だ。

『ギャルゲーマスター椎名』

ギャルゲーマスター椎名 (電撃文庫)

ギャルゲーマスター椎名 (電撃文庫)

ライトノベルの父とは何か少し考えてみる。これまでいくつか書かれたライトノベルについてのライトノベルの中で、主人公であるところのラノベ作家の父親は大物文芸作家であったり英文学者であったりした(えでぃっと、三流木萌花)。ライトノベルは文学を乗り越える。ライトノベルと文学との対立をさしあたり自明としたところに、『ラノベ部』で描かれた、堂島による日本文学研究会に対する攻撃も機能するのだろう。
しかしライトノベルと文学を切り離して考えるのはつまらない。どこか反抗期めいてもいる。ちょうど堂島の龍之介へのべったりとした依存の、その幼さのように。ひどくつまらないことだ。下らないフレームは捨てなくてはいけない。
ライトノベルの父とはギャルゲーであり、『俺妹』が迂回した父としてのギャルゲーを肯定すること、つまり、父親が有名ギャルゲー製作者であることを理由に、ギャルゲーマスターと名付けられギャルゲーを憎むようになった主人公が、ギャルゲー部の少女たちと共にギャルゲーをプレイし作っていくなかでギャルゲー=父を肯定する、そんな作業が必要だ。『ギャルゲーマスタ椎名』はまずはそのような話である。
そしてこの作品において、ギャルゲーの模倣はギャルゲーであり、ライトノベルの模倣はライトノベルである(『ギャルゲヱの世界』では、ギャルゲーの模倣がライトノベルの模倣であったことを思い出そう)。それは奇跡的なことなんだ。
あらすじ、キャラクター、属性、シーンなどの要素は構造に積極的に組み込まれ差異を最大化しようとする。それら無数のパラディグムが煌めき、ギャルゲー制作のライトノベルは選択肢を持つだろう。そして彼はいつだって選択を迫られている。ヒロインの容姿を決めることは部室の中の少女を選択することであり、シーン作りのためにシナリオを演じることで好感度はアップする。それはギャルゲーと同じように。あるいは彼に選択肢はなかったかもしれない。彼は選ばされ、そしてむしろ選ばれたのだから。ヒロインによる逆選択肢、それはたとえば彼が何をするか賭けることで少女が彼を選んでいたように、選択肢は事後的に形成されてもいた。彼は何もしなかったのかもしれない。ギャルゲー主人公が何もしないように。プレイヤーの存在を思い出す時だ。
彼はギャルゲーマスターであり、俺はライトノベル読者であり、ギャルゲーマスターはギャルゲーを読むことしかできずそれは俺とまったく同じであるのだから、ぼくもあのように言ってみたい「おれを誰だと思ってるんですか? ギャルゲーマスター椎名ですよ?」部室という空間で消去された無為なる主体は、ただ共に読むことで肯定される。

『バカとテストと召喚獣7.5』

バカとテストと召喚獣7.5 (ファミ通文庫)

バカとテストと召喚獣7.5 (ファミ通文庫)

たとえばバカテスはつまらなくなったとか、いやそもそも面白かったのは最初の一巻だけだったとか、今更のように事実を確認するのはよそう。一巻以降ストーリーが全く展開しないのは誰の目にも明らかなんだから。順調に基礎学力をつけているのは分かる。来るべき革命に備えて蓄えられた戦力が物語のかすかな歩みを見せている中、異様な速度で繰り広げられるキャラクター同士のコミュニケーションがより鮮やかに目に映る。バカテスはキャラクター小説である。しかし、バカテスにおいてキャラクターが斯くも自由なのはなぜだろうか? さしあたりそれは措くとして、こんな風な疑問は自然だ。つまり、物語は如何にしてキャラクターに乗っ取られた(ように見える)のだろうか、ということ。
ファミ通文庫一流の延命技法があると思う。短編集とはいえ、ほとんどが書き下ろしなんだから、わざわざ短編集にする理由なんて一つしかない。酔っぱらってトランプをしたり、闇鍋をしたりする。本当にどうでもいいイベントだ。そして残りの二つの短編で描かれたのは、内面の捏造ということに尽きる。
バカテスにおいて主要キャラクターの一人称はすべて異なる。発話者が特定し易いようにという機能的な理由に他ならないその一人称の選択が、新しく過去を付け加えられて物語として生まれ変わり、ウチがウチっていうことに運命的な起源が付け加えられる「ウチと日本と知らない単語」。
そして「僕とホンネと召喚獣」で事態はいっそう末期的だ。本来試験召喚戦争のためだった召喚獣の機能を調整して、新しいイベントを行う、というのが繰り返されてきたことを思い出そう。つまり、決して召喚バトルの物語ではなく、バカテスとは、試験戦争にしか使えないと思われていた一つの技術を拡張し、生徒たちのコミュニケーションを補佐する楽しい学園生活のための技術に改造していく物語だったというわけだ。そこで、召喚獣は生徒の成績を可視化することにとどまらず、パラメータは成績から人格へと肥大する。この短篇でついにキャラクターの無意識を代弁するまでになった。学力向上のためのアーキテクチャが生徒同士のコミュニケーションを円滑にした、すばらしい管理システムがここにはある。
また、抵抗し続ける表象の臨界としてのみ設定された秀吉という全く存在価値のないキャラにモノローグが与えられた。同じ顔の双子の姉に簒奪された内面の葛藤。表紙を見れば分かる通り、登場する男キャラのほぼすべてが女装するようになったこの作品では可愛いだけの男の子には意味がない。つまり彼はすでに役目を失った。アニメで彼は過剰に少女としてふるまっていたはずだ、ぼくの見たところまではだけど。しかし、次のようにもいえるだろう。暴露される心のうちですら「こんな話が明久たちにバレてしまえば、ワシは更に女扱いされてしまう」としか思えない彼は、いまだ空虚な鏡としてその場に留まり続け、周りのキャラクターたちはそんな鏡で身だしなみを整えながら、それぞれ自由奔放にくっついたりはなれたりいちゃついたりできるんだ、って。

『GJ部』

GJ部(グッジョぶ) (ガガガ文庫)

GJ部(グッジョぶ) (ガガガ文庫)

部室に行くとちらほら人がいて、適当な椅子に腰かけて、テーブルの上にある本をなんとなく手に取った。
「じーじぇいぶ?」
「……グッジョぶ」
「へえ、なんかいたいね」
話をしながら本を読んでいるとあんまり内容が頭に入らないけど、そう言ったら、もともと物語なんてないからいいんじゃない、と言われた。四ページずつの下らない学生のやりとりが延々と続いていく。読んでいて眩暈がした。イラストが非常に多くて可愛らしい。
「もうさ、本じゃなくていいと思うんだけど、どうして書籍なのかな?」
知らないよ、そんなことは。長い文章よりも短いほうが読みやすくていいから、勝手に物語は細かく切り刻まれていって、そして物語は死ぬと思うのだけれど、どうだろう。物語の亡霊ってのはいまだ某所には徘徊しており、ストーリーとかなんにもなくてぺらっぺらである風を装って、ちゃっかり過去とか面倒だったりすると、やだね。
「なかみなんてなんにもなかった」
「つまんないつまんないつーまーんーなーいー」
「何が?」
「ここが。いうなれば世界が」
「世界って? もっと萌え絵で説明してよ、そうすればみんなハッピーだ」
四ページの文章につき、二ページのイラストが置かれてて萌える。おしゃべりしながら読んでるとよく理解できない。そう、ぼくはまったく覚えていない。ライトノベルにはキスシーンが少ないとか書かれていたっけ。解体して解体して、何も残らない。時間が流れた。

入間人間についての覚書

たとえば書きはじめることで、まっさらな白紙にはいくつもの方向線が刻まれ、それに従いあるいは反発してつづけることができる。言語による、始めることの困難とつづけることの容易さがある。けれど、同時に、悲劇の可能性があらかじめ埋め込まれてもいる。
入間人間はそういう作家だ。
言葉と人間の間の契約関係の不確かさや鬩ぎ合い、『電波女と青春男』の二巻でなまなましく表出されるライトノベルというものの性質をなんと呼べばいいのか分からない。さしあたりそれを文学といってみるとして、そのときぼくたちは何を信じているのだろうか、今更のように。

『AURA』の丸パクリである『電波女』の一巻から二巻へ、ゲームオーバーのあとも続いていく人生に奇蹟はない。グッドもバッドも主観であるのだから、結末がたとえ爽快感が演出されたハッピーエンドであれ、事態は何ら変わっていないのだった。圧倒的な閉塞感がある。
物語の前半は単なる一つの行き詰まりの記録として、だらだらと文章が費やされた。入間の文章の読み難さと合わせて、それは緊密な内部の描写であり、端から端へつぶされていく可能性であり、一つの構築された言語の密室である。緻密に、執拗に積み上げられた言葉と言葉と言葉……。

見えるものを書く、という写実は容易に転倒する。書いたものが見えるという自明性。もちろん、視界には文章をおいてほかに何もない。だからこそ、あるいは、それでもなお。書くことを信じるためには、ライトノベルを書き進めるためには、徹底的に描写しなくてはならない。入間の文章における異常な視覚性はこれに由来する。饒舌に連ねられる風景描写は止まらない。
キーボードを叩く手を止める手は残されていないのだから、文章は延々と書かれ、世界はディスプレイの上に現象することになる。きらきらと白く発光する世界、そこでは美しい少女は眩しい光の粒子を飛ばしているだろう。少女が少女でありながら単なる光の輝きでもあるという二重性、あるいは拡散する粒子を少女として統合する少女という単語。
同時に、キャラクターはキャラクターではない。これもまた入間人間の方法だった。青春ポイントに代表されるタグ付けによる人格の統合が彼のテキストには欠かせない。ぼくらが初めてまとまった本として読むことができた文章に出てくる集合が、「嘘つき」なみーくんと「壊れた」まーちゃんだったことを思い出せば、入間人間がはじめから一貫性を書こうとしないのは明らかだ。
壊れた人間、言語の作用によって延命される死体たち。狂気はここにある。

ディスプレイに投影された言語の密室は風景が連ねられた一つの閉じた世界でありたい。その試みはあまりにも簡単に挫折してしまった。彼(ら)ではどうすることもできなかった。一つの視点から描かれる可能性は全て虚しく消費され、視点を変更することによってかろうじて物語は続くことができた。
アポリア、絶望感、どうしようもなさ。救済は外部にしかありえないが、それを内部に見出さなくてはならないということ。そして入間にとって内部とは外部の徹底的な排除、つまり後半では、書き続けることは、隙間を作らないように緻密に描写された文章から隙間を見つけるという不可能な作業に他ならない。表面にはただ罅割れたテキストが残る。

しかしディスプレイに出力される文章は世界ではない。そしてディスプレイもまた世界ではない。文章は読まれることで現象する。あるだけでは駄目だ。ここに目があることでようやく読むことができた。けれど読まれた文章は亀裂が走っていた。まだ足りない。

光がある。

ディスプレイには対面する誰かの顔が重なって映り込んでいる。表面に深さはないのだから、そこでは全てが等価だ。罅を埋めるあまりにも人間的な作者が生まれる。テキストの裂開、開示される実存。それは書くことの可能性の、このうえなく美しい表出だった。

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)

『恋敵はお嬢様☆』

恋敵(ライバル)はお嬢様☆ (電撃文庫)

恋敵(ライバル)はお嬢様☆ (電撃文庫)

男女二人では足りなすぎる。どこか黒幕めいたしたたかな少女が二人を遠ざけ近づけ笑っている。現代ラブコメはこのように描かれる。しかし、二人目の少女は、どうして彼らに干渉したのだろうか。計算高い少女は、どこか見下したように男を隷属させる。彼女の企みは一人目の女の子へのいたずらを延長させたものである。ぼくであるかもしれない男は耳を澄ました。少女たちの濡れ華やいだ声が空間に木霊している。かんけいの始まりの、おんなの子たちのたわむれ……
『恋敵はお嬢様☆』は三角関係のたんしょに百合らしさを見出し、それを展開して物語は開始された。しかし三角関係はホモソーシャルな関係を強化する。幕間で明かされるのはひとりの少年のお話――お嬢様という構造を接木された少年の姿ではなかったか。百合から少年同士の関係の強化へと、認識転換はダイナミックに行こう。
「お前ってラノベの主人公みたいだな?」自意識は物語を加速する。彼は自らがラノベ主人公であることに気づいてしまった。フラグは迅速に回収される。「初日に出会って隣の席になり、2日目には弁当の手作り卵焼きをもらい、3日目には夕焼けの空の下で一緒に下校――」これが一人目の少女との恋愛のコアである。あとはラブレターを出すだけだが、届く手紙をぼくらは知らない。破り捨てられるラブレター。ここから三角関係が始まる。お嬢様は恋愛を阻害する黒幕としてしばらく振舞う。次第に偶像化するメインヒロインはむしろ積極的に主人公とお嬢様の仲を取り持つことでより象徴的に行動し、物語は一応の三角関係を保ちながらも主人公とお嬢様の距離の接近、つまりお嬢様がお嬢様であることに焦点をうつしていく。
構造と自意識の対立の縮図がお嬢様という概念であることを思い出そう。前景した彼女の自意識は家によって排除される。恋敵としての両者の関係は半ば強制的に断たれてしまった。しかしまだなにも終わらない。連鎖する自意識の発動。主人公は覚醒する。俺は誰だった?
ライトノベルの主人公は理不尽を許さない。彼は説教によって唐沢鈴という名のひとりの少女を救済する。ライトノベルにおける説教は二重のナルシズムに蔽われている。俺が正しいその正しさは、言葉によるメディアが、言葉によって人を説得できることを描くという言葉への信頼=小説の自立の作用によって包括的に保証されているのだから。自意識が構造を覆い尽くした。構造の掛け金が外された眩しい空白の到来。革命は賭けられた。
可能的恋愛。一人目の少女の固有性は上記のカギカッコで括られたフラグであった。しかし同じ体験を二人目の少女とも経験している。一人目の少女のメインヒロイン性は、したがって既に剥奪されている。三角関係は解除されていたのだ。構造に対する違和感は構造が解除されると同時に溶解する。その余白には新たな構造の書き込みがなされるだろう。
どこか少年マンガめいた結末は、少年どうしの結びつきのつよまりとして。百合から始まるこの話は少女性を排除して終わった。

『おしえて! マーメイド』

「マーメイド」の中には「メイド」という文字が含まれている。プロローグ以前の、物語の始まりよりさらに前に置かれた一つの指摘が、この小説の出発点である。つまり、人魚姫という御伽噺にライトノベル性を見出し、現代において活性させること。これは方法論でもある。
薄く、安く、挿絵が多い。スマッシュ文庫は、もっと端的に、読みやすい。殊ライトノベルにあって、読みやすさは読み捨てやすさ以外の何ものでもない。パッケージとしてただ軽くなること。ゆえにラノベという閉じられた消費空間の利益分配を再編成するにはどうすればよいか、その戦略は……などなど。と、しかしぼくのような一般読者がこんなことを考えても詮方ない。おもしろいけど。ぼくらは文章を読もう。
男の娘すばらしい。彼女にちんちんがついてる理由は全くない。ただ、ついてるほうが萌えるから付けた、みたいな、単なるおちんちん性のようなものの確かさを俺は感じた。他にも、エロイ描写がエロイ。触手とか触手とかあと、おっぱい、大きすぎ。イラストが多いことはこのような場面で非常に有効に機能する。むしろ挿絵映えが前提とされ文章が構成されていく、って典型はこれまで以上に加速するだろうし、イラスト/ページが大きいという制度的問題は視覚的クライマックス密度として文体を異常化させうるので超期待。
スマッシュ文庫が形態的に示しうる特徴=視覚性(エロさ)がみかづき紅月という作家により最大限に発動したと考えると、「多数のヒット作を持つ萌え小説家」という著者紹介文は示唆的だ。ここでは、単一作品に還元され得ない萌え小説を書くことができる能力が選択的に紹介されており、ありうる強調は避けられている。行われているのは何か遺産相続のようなもの、ライトノベルという積層するアーカイブに接続する能力の証明に他ならない。それは実際的には、かつてあった話を現在に召喚するという作業である。リパッケージが思想としてライトノベルに通用する。流通速度が攪拌する、堆積する物語の死体を生き返らせる。これは肯定の作業だ、ライトノベルを。新人賞的な才能ではなくて(そんなものは最初からどこにも存在しなかった)。
人魚姫という死んだ物語にメイドというタグを見出し/取り付けて現代に甦らせた話=ライトノベル、その物語の二重のありがちさは戦略となり、新レーベルの方法論を鮮烈にうちつける。