『絶望同盟』

絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望を絶望と呼ぶことでそこから逃れ去ることができるならば、希望を希望と呼ばない彼らはまったく正しい。名付けを拒む一つの身振りは、『ぷりるん。』から続く特色であるかもしれない。言葉は確かに殺すのだから。希望は常にイメージされる。爽快なラストは書かれる限りで希望ではない。
それぞれに孤独と絶望を抱える高校生四人が集まって、庭を作ろうとする。まず設計図が必要だ。未来を色づける想像が。スケッチブックにクレヨンで描かれるそれへ「木羽が口を挟」む――「わざわざ絵を描く必要がどこにあるんだ。場所を区切って名前を書くだけで事足りるだろう」と。この申し出は当然却下される。言葉は、名前は拒否される。そして、スケッチブックには「もう色とりどりの花が咲いていた」と、美しい庭としての希望が「描かれる」ことで小説は終わる。しかし何かが続いていくのを感じる。イラストだけではなくて。
さて。彼らが同盟を築くことができたのは、(昼飯時)それが食事中という口が塞がった状態での集まりだったからだ。言葉はいらなかった。もちろん各々の内面にはモノローグが充填している。言葉を拒否しながら言葉によって展開する物語、そこに対する自虐はあまりに歪な文章の在り方によって明示された。『ぷりるん。』にあっては音声的な次元を保ちつつ生まれては消える現在を浮き出して、時間性が尊重されていたが、『絶望同盟』の文章は異常に時間を歪めていく。たとえば、44ページの「この一秒はふだんの一秒とはまるで異なっている」という宣言の下に展開するネンジの煩悶は、書き言葉のように自省され、外的な事象を排除し自己完結するまで論理が重ねられる。(蓮井が)教室に行って戻ってくるまでという限られた時間に対して、長すぎる思考の明らかな異常さは、書くことによってしか書けないことを戯画的に演出することで、小説に抵抗している。生起する感情をその都度名付けることでキャラクターの内面を書くという方法論は、その極点としてのキャラの特徴がロリコンなどと、否定的に受け止められることで脆さを敢えて曝す。言葉は傷つける道具でしかない。直接的には。そう、これは小説ではなくライトノベルだった。
だから挿絵は、テキスト内部で実際に起こったことの描画ではなく、何か暗示された、先にある希望のイメージとして。言葉を書かないこと、それをこそ書くこと。その方法をぼくは希望とは呼ぶまい。