入間人間についての覚書

たとえば書きはじめることで、まっさらな白紙にはいくつもの方向線が刻まれ、それに従いあるいは反発してつづけることができる。言語による、始めることの困難とつづけることの容易さがある。けれど、同時に、悲劇の可能性があらかじめ埋め込まれてもいる。
入間人間はそういう作家だ。
言葉と人間の間の契約関係の不確かさや鬩ぎ合い、『電波女と青春男』の二巻でなまなましく表出されるライトノベルというものの性質をなんと呼べばいいのか分からない。さしあたりそれを文学といってみるとして、そのときぼくたちは何を信じているのだろうか、今更のように。

『AURA』の丸パクリである『電波女』の一巻から二巻へ、ゲームオーバーのあとも続いていく人生に奇蹟はない。グッドもバッドも主観であるのだから、結末がたとえ爽快感が演出されたハッピーエンドであれ、事態は何ら変わっていないのだった。圧倒的な閉塞感がある。
物語の前半は単なる一つの行き詰まりの記録として、だらだらと文章が費やされた。入間の文章の読み難さと合わせて、それは緊密な内部の描写であり、端から端へつぶされていく可能性であり、一つの構築された言語の密室である。緻密に、執拗に積み上げられた言葉と言葉と言葉……。

見えるものを書く、という写実は容易に転倒する。書いたものが見えるという自明性。もちろん、視界には文章をおいてほかに何もない。だからこそ、あるいは、それでもなお。書くことを信じるためには、ライトノベルを書き進めるためには、徹底的に描写しなくてはならない。入間の文章における異常な視覚性はこれに由来する。饒舌に連ねられる風景描写は止まらない。
キーボードを叩く手を止める手は残されていないのだから、文章は延々と書かれ、世界はディスプレイの上に現象することになる。きらきらと白く発光する世界、そこでは美しい少女は眩しい光の粒子を飛ばしているだろう。少女が少女でありながら単なる光の輝きでもあるという二重性、あるいは拡散する粒子を少女として統合する少女という単語。
同時に、キャラクターはキャラクターではない。これもまた入間人間の方法だった。青春ポイントに代表されるタグ付けによる人格の統合が彼のテキストには欠かせない。ぼくらが初めてまとまった本として読むことができた文章に出てくる集合が、「嘘つき」なみーくんと「壊れた」まーちゃんだったことを思い出せば、入間人間がはじめから一貫性を書こうとしないのは明らかだ。
壊れた人間、言語の作用によって延命される死体たち。狂気はここにある。

ディスプレイに投影された言語の密室は風景が連ねられた一つの閉じた世界でありたい。その試みはあまりにも簡単に挫折してしまった。彼(ら)ではどうすることもできなかった。一つの視点から描かれる可能性は全て虚しく消費され、視点を変更することによってかろうじて物語は続くことができた。
アポリア、絶望感、どうしようもなさ。救済は外部にしかありえないが、それを内部に見出さなくてはならないということ。そして入間にとって内部とは外部の徹底的な排除、つまり後半では、書き続けることは、隙間を作らないように緻密に描写された文章から隙間を見つけるという不可能な作業に他ならない。表面にはただ罅割れたテキストが残る。

しかしディスプレイに出力される文章は世界ではない。そしてディスプレイもまた世界ではない。文章は読まれることで現象する。あるだけでは駄目だ。ここに目があることでようやく読むことができた。けれど読まれた文章は亀裂が走っていた。まだ足りない。

光がある。

ディスプレイには対面する誰かの顔が重なって映り込んでいる。表面に深さはないのだから、そこでは全てが等価だ。罅を埋めるあまりにも人間的な作者が生まれる。テキストの裂開、開示される実存。それは書くことの可能性の、このうえなく美しい表出だった。

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)

電波女と青春男〈2〉 (電撃文庫)