『ご主人さん&メイドさま』

たとえば空から降ってくる、可愛い女の子はいつだって突然だ。メイドオタの主人公のもとへ金髪の美しいメイドさまが訪れるのも、彼の身に覚えはない。美少女との出会いを変態が祝福する。限りなくストレートなエロが物語を展開する。むしろちょっと品がないくらいで、メイドさまを奪還したい奴らとの戦いはなんか脱衣ゲームめいてもいる。性欲剥き出しのメイドオタク……
さて、ライトノベルの冒頭は多くこのように書かれる。ぼくたちはけれどこの唐突さが偽装されていることを知っている。いつもそうだった。どうせ好かれる理由があるんでしょ。偶然はすでに運命化しており、いずれ思い出す過去にこの出会いの契機が隠されているだろうし、メイドオタクという変態さもまた、出会いのエピソードを原因としているのだから、溢れる性欲はむしろ純愛に近づく。そもそもこの物語で空から降ってきたのは誰だった? 能動性の復権
あらすじは、古臭いエロネタを駆使したウェルメイドなボーイ・ミーツ・ガール。そんなことより後半のテンションの高さが素晴らしい。上手い下手じゃない文章芸。超瞬間的快楽。ここにはライトノベルの魂がある。その場の勢いを最高潮に盛り上げるための多様な文体の使い分け。意味よりも効果を追求した演出的文体、そして微かにリズムを刻みながら徐々に振幅をガンガンに萌え狂う独白は括られた声を巻き込んで爆発する。ライトノベルの魂のビート。

『夏海紗音と不思議な世界1』

『僕は夏海紗音と不思議な航海に出て、世界の破滅の危機から救った』――主人公がこの物語の回想を始める前、出来事がとうに過ぎ去った後、<いま・ここ>で刻んだ言葉。
少年は、美しい少女にみちびかれ、<ここ>と重なりながらも触れあえないズレた世界へ迷い込んだ。少女は世界の破滅を祈り、海の果てを目指す。未知の世界、きらきらと光る海を帆船ですすむ冒険、行き過ぎた文明が決壊したのだろうか、終末的な夕日が美しかった。途中いくつかの困難がある。さながら通過儀礼のように。いや、この物語はこんなにも気持ちよく児童文学のプロットをなぞっているのだから、思春期の男の子の成長物話として読めるはずだ。女の子を可能な限りたくさん出さなくてはならない/ライトノベルの命題に従って萌えキャラへと転身した事実上のキーアイテムが意外にも興を削ぐのは、だからここでは全く問題ない。いずれ、細かい寓意を読みとる気合も能力もないのだし、なによりそこにはさして面白みもないのだから、少年と少女の出会い以外のものは全て省略しても読解にはいささかも影響しないだろう。それらはすべて、心に孤独を抱える彼がなぜこの世界にやってくることができたのか、物語の端緒の疑問に答えるためだけに、あまりにも都合よく登場するその都合よさを演出しているにすぎないのだから。
夏海紗音はご都合主義を肯定する能力を持っている。彼女の孤独は引力として望むものを引き寄せるのだ。そしてその能力を保持しているという都合よさもまた、(父を海に喪った)少女の寂しさという殺し文句で都合づけられてしまう。これをクライマックス風にアレンジしよう。彼女は<いま>を構成している。彼女の欲望に合わせて、世界は絶えることなく新たに生成を続ける。(もちろん局所的に、あるいはテキストの外部は読者には分からないのだ)。故に最後の局面は、脅しや囁きによる紗音の本音上塗りゲームとなるだろう。長い長い不思議な航海を経て、意識してすらいなかった(していたら旅は始まらなかったのだから)当たり前のことをようやく見出すことができた。歪な力は消え、少年は帰還する。しかし、
彼はなぜ召喚されたのだろう。なぜ彼だったのか。機能的な答えはない。
だからそれは偶然だったのだろう。たまたま出会ったから。
すれちがう世界の記憶を、少年はブログに載せた。
そして、そこまでをを描いたのが本書だった。
これはあまりに抒情的だ。つまり、


「読んでる人いますか?」

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない 5』

五巻ラストで桐乃は日本に帰ってきた。けれど、彼女は本当に日常に復帰したのかどうか。むしろ五巻においては、選択こそされなかったが、選びさえすれば問題なく入ることのできたもう一つのルート、その可能性を一から摘み取っていく作業がなされたのではないか。つまりライトノベルの最も激しいパフォーマンスである『俺妹』の中では比較的穏やかに物語が紡がれるこの五巻の役割は、京介が桐乃を選ぶことができた好感度の上昇、京介が桐乃と積み上げてきた何か特別な関係のようなものを、清算するためにある。
そのためこの巻は一巻から四巻までのまとめとして読めるだろう。かつて京介と桐乃(と黒猫)で為されたイベントが、再び京介と黒猫(と瀬菜)によって上演される。今までの桐乃の相談によって得た経験値を使い、京介は黒猫を助ける。ここで、桐乃と共に過ごした一回的な経験は単なる一つの例へと堕し、固有性は失われ、黒猫と京介の特別な体験へと更新される。「私はあなたの妹の代用品ではないわ」という黒猫の言葉を受け、「誰も"誰かの代わり"になどなれはしない」のだとして、傍点で強調された「おまえ」へと京介は語りかける。
(しかししらじらしい台詞だ。だってこの物語というのは、「私がやりたいことをやった結果、ユーザーに受け入れられなかった」ゲームが叩かれるように、個人のかけがえなさが絶えず否定される話じゃなかったのか。ここで叩かれているのが黒猫によるシナリオであり、瀬菜によるシステムが『叩かれてすらいない』と書かれるのはどういうことだろうか。普通に考えるならば、あるライトノベルがどんなにつまらなくても、作者だけが否定され、そういったつまらないライトノベルを生み出す制度自体は無傷のまま生き残るということだろうか。ところで五巻で最も感動的なのは、235ページで語られる真の打ち合わせの素晴らしさについての短い文章である。<彼ら>は多数で書いた。故に、批判が局所化されるのは許されないのだ)
小説というメディアにとっては全く意味のない選択肢が適宜挿入されるのは、瀬菜が攻略可能キャラとして黒猫と並置されながらも積極的に選ばれず、また半ば外在的な要因によって強制的にルート入りした黒猫を(遅れてではあるものの)主体的に選択することで、ルートの強度を高めているといえるだろう。またラストに桐乃と一緒にプレイするエロゲーで、相似的に示される黒猫-桐乃の対立は、黒猫に対する好意、兄としての桐乃への感情、桐乃自身の攻略可能キャラであることの放棄として、すでに選択されつつも事実上の(再=)選択肢として機能しなくてはならない五巻の役割を終える。
また、他にも桐乃を消去するための細かい調整がなされている。ブラコン/瀬菜という新しいキャラクターが可能世界の桐乃であることは疑うべくもなく、彼女によって、(選ばれなかった)桐乃が選ばれた物語がこちら側の世界に召喚され、複数的な世界を描くことにもなっている。幼なじみと対立は黒猫へと引き継がれ、また、あやせもいつの間にか幼なじみと手を結んでいた。
そう、幼なじみが今や大きな権力を持つ。それは本質的に日常に強く、反復によって真価を発揮する。故に、今後は黒猫-幼なじみ(ここでは名前は不要だろう)による三角関係が勃発するというのはまあ普通の予想でしょう。
とはいえ、桐乃は帰ってきた。妹として、黒猫の親友として、そして非攻略キャラとして。

『まよチキ!』

まよチキ! (MF文庫J)

まよチキ! (MF文庫J)

氾濫するラブコメに固有性を与える。この作品はこうで、この作品はこう。ほら、全然違うでしょ。しかし、ラブコメにおいて男の子と女の子のいちゃいちゃした話が求められているならば、そもそも固有性なんてマジどうでもいい。形式を模倣し表面だけ異なるものが多産される。どうせ少数しか読まないのだから、この体験は必然的に特権化される。特別な作品なんて端から存在しなくても、ぼくにとってはこの本が特別なのです。故に、埋没しうるこの読書体験を覚えておくために、ヒロインの固有名が刻印されるタイトルが流行した。縮小再生産の中の僅かなかけがえのなさを、せめてラブコメ=ヒロインの次元で肯定するために。
まよチキ!』もまたそのような類似した形式を他の多くの作品に見出すことのできる作品ではある。男装した美少女執事とともに繰り広げられる賑やかな日常は、洗練された最先端のラブコメとして記憶されることになるかもしれない。けれどこの作品のかけがえのなさを肯定するために、ぼくが萌え狂うことになるヒロインの名を出すのはよそう。むしろ主人公の「坂町近次郎」という名前こそ、ぼくらにとっては重要である。「ジロー」と呼ばれる彼は、MF文庫Jが量産するラブコメ主人公の優秀な弟であるから。
ライトノベルあるいはラブコメは、無限にエロゲーに憧れつづける。たくさんの女の子と一緒にしあわせな学園生活を送りたい。しかしここで夢見られる「たくさんの女の子」は選択肢によって物語が分岐するゲームのシステムに依存する、可能性のハーレムである。単線的に進まざるを得ないライトノベルというメディアにおいては、このシステムの差異は絶対的で、ときに強いられるある種の決断にぼくらは大きな苦しみを味わった(桐乃……)。けれど、あるいはだからこそ、ライトノベルの主人公はこれらシステムの差異を彼ら固有の能力に押し込むことになった。能動的選択が不可能な中で、いかに女の子といちゃいちゃするか、それだけのためにラノベ主人公は進化してきた。砂戸太郎はマゾヒストであり、遠山キンジはヒステリアだ。両者とも女の子との接触にコンプレックスを持っており、治療的な行為と称して女の子との受動的な接触が、積極化される。「選択肢がなくても去勢されているわけじゃないんだ!」と、ゴミ箱に入って四肢を喪失した小山萌太は手も足も出ない状態であっても、箱ごと浮遊してみせることで力強く主張するだろう。
砂戸太郎の弟ジロー、遠山キンジの弟近次郎、つまり坂町近次郎もまた、女の子に近づくと鼻血を吹き出してしまうという能力(?)を持っている。そして、洗練されたラブコメであるこれら作品では、このシステムを折り畳むための能力が女の子を守る力にもなっている。格闘狂の母と妹にサンドバックにされ、女性=鼻血と刷り込まれたジローの打たれ強く頑丈な肉体。物語がいったん閉じるために要請される偽装された戦いの際、これらのコンプレックスは主人公のカッコよさとして逆転する。ラブコメ最先端は萌えるだけじゃなく燃えるのでした。
女の子といちゃいちゃするために巧妙にデザインされた主人公の活躍により、ようやく読者に回路が繋がりヒロインに萌えることができるようになります。先ほどラブコメにとって最も大事なものがヒロインの名前であり、「彼女たちが何々する」というタイトルが流行ってると書いた。ヒロインってマジ大事だよね。でも『まよチキ!』。あとがきによれば「迷える執事とチキンな俺と」の略であるこのタイトルは、多くの示唆をぼくたちに与えてくれる。ラブコメにとってヒロインの名こそが刻印されるべきだとして、ここにそんな気配は微塵もないし、まして執事って萌え属性すら無視されてる。ってか、「迷える」と「チキン」という部分がタイトルとして浮き出されている。そして「まよチキ」という四文字タイトルから再現できるのは「迷える○○とチキン〜」くらいで執事は完全無視。そもそもどうして略したのか。
迷える執事とチキンな俺が出会う物語=ラブコメが、誰か迷う者とチキンとの出会いとして略される。半ば強引な四文字化は、ラブコメ自体が持つ構造化と同期し、作者の徹底性が示されている。執事系女子という属性は切り捨てられ、ただ構造だけが残る。彼女はただ迷っていればいい。そして何処かにチキンもいるらしい、と。タイトルの由来をあとがきに書き記した著者、あさのハジメは相当クレバーにこの構造を利用している。
模倣されるテンプレとかラブコメの構造とか、いろいろ繰り返してきたけれど、そろそろテンプレを再現してみます。
少女は男装してるし執事であるけれどそんなことはどうでもよく、もっぱら彼女の迷いを知ってしまった男の子のコンプレックスを解消するためのレッスンとして話は進む。構造化されたラブコメは自律してラブコメを維持する。近づきすぎず離れすぎないようにバランスを調整する第三者が二人の関係を調整し、それができる権利を持つ女の子の配置も必然的に決定されるだろう。しょせん純粋な観察者なんて存在しないんだから執事の主である彼女もまたこのラブコメの関係性に絡みとられ、調整する暇もないヒロインとしてラブコメはさらに自動化するだろう。けれどそれはもう少し先のことです(二巻に萌芽が見えます)。また、主人公には能力の原因となった妹がいて、家=日常(/非日常=学園)の層の萌えを担当するけれど、彼女もまた男装執事と関わることで(ラブコメからは排除されつつも)日常と非日常の境は解消され、賑やかな空間が出現する。慎重にアレンジされ恋愛と化さない物語=ラブコメにさしあたりの区切りをつけるため、設えられた戦いによってヒロインの迷いは一応断たれ物語は閉じる。敵もまた娘への愛にあふれた近親者の企みなのだから、この悪意なき空間には全く愛が充満している。
完璧な構成。
かつて時代の空気が、多様な鋭さを持ち味にデビューした作家たちに書くことを強いたラブコメ、その気分を自ら規範化することでかつてない強度に満ち溢れたラブコメ機械が生成した、神作家。
さて、ラブコメ萌え要素は全く関係なかったが、二巻では執事性が強調された。物語が物語として駆動するためには、キャラを活性しなくてはいけないのだろう。
まよチキ!〈2〉 (MF文庫J)

まよチキ!〈2〉 (MF文庫J)

『ダブルアクセス』

ダブルアクセス (MF文庫J)

ダブルアクセス (MF文庫J)

いくつかのジャンルを思い出そう。ラブコメとか学園異能とか異世界ファンタジーとか。貧乏ながらも現実では妹や転校生と戯れ、アルバイトとしてオンラインゲーム=ファンタジー世界でクエストを繰り広げる/この作品は、さっきの3ジャンルが混淆しているといえるだろう。いずれ不完全だけど。でも、予め草臥れているものを完全に再現してなんになる?

兄は妹を守るために戦わなくてはいけない。しかし現実世界において戦いは視えない。不安や憤りは無形の圧力としてぼくらを覆いはするけれど、スペクタクルとして噴出することはない不可視の戦い/組織される以前。学園異能に登場するような明確な敵はもはや目の前にいない。かつて「死角」として抽象化された彼ら懐かしい敵の機能は、ぼくと少女を結び付けるためだった、そして死んで死んで死んでいった。完全死=学園異能のラブコメ化。

幻想世界で希求される闘争。現代から排除された敵はファンタジーに逃げ込んだ。そこもまたラブコメによって駆逐されつつある。今求められるテクニックは、異世界で如何に戦うかってこと。いくつかの作品に顕著に表れている現代ファンタジーの特性を簡単に形式化しておきます。

外敵に備えて戦闘の訓練を積んだとはいえ所詮学生なのだから、学園=ラブコメの呪縛からは逃れることは不可能だ。力をポテンシャルとしつつも、能力バトルが始まるには超越者の登場を待たなくてはならない。それに押しつけられたルールに従って水平的な戦いを繰り広げながらも、実存なき戦いへの違和からそれらもただの黒幕の企みとして排除され、残った学園/ラブコメが勝利する。まあ、乱暴にまとめると戦いの最後の抵抗線として召喚された異世界ですら、バトルは黒幕によって局所化される。黒幕とは決して作者のことではないし、メタでもなんでもないのだけれど。どうも痩せ細ってしまった感。

さて、学園異能もファンタジーも、いまはラブコメによって骨抜き/寄生されてる。だからなんだよ。話が逸れすぎました。


妹を守るために兄は戦う。ある種感動的な題目として機能しなくもないこの一文が、「妹」によって支えられていることは間違いない。語彙に圧縮された歴史の記憶によって。そして記号の盲目性に保持されるこの物語は、「不可視」なるものを主題とすることでライトノベルとして正常に機能する。

ってか主人公まじイケメンすぎ。手始めに口絵で紹介される巧のビジュアルは、控え目に言ってもカッコイイ。10ある挿絵のうち6つが主人公の顔をしっかりと描いていることからも、作品での彼のイケメンさの重要性が分かるだろう。しかし、

残念な美的感覚の持ち主である妹に毎日「カッコイイ」と言われている巧は、謙遜ではなく、本当に自分のルックスが悪いと思っている。(p32)

ライトノベルらしい主人公消去の宣言ではあるが、ここで妹の美的感覚=視覚が切り捨てられている。そして以降ヒロインの一人である妹にとって、主人公は徹底的に不可視の存在として表示されることになる。たとえば「明かりを灯す」と題された5章で交わされる大事な会話は、電気が止められ明かりのつかない暗闇の中で為され、また最終章で戦いから帰還し顔面ボッコボコの巧に「迷わず飛びつ」くヒナ。イケメンを享受する視点を奪われた少女は、このように彼に抱きつき、触覚によって存在を分け合うことを選ぶだろう。だから彼女は巨乳としてデザインされる。

では、もう一人のヒロイン、転校生の栞はどうだろうか。彼女は外から来た者の役割として主に異世界のシーンを代表するが、つまり異世界ファンタジー現代学園異能のハイブリットであるこの作品ではゲームの中のキャラクターとしての側面が強い。美人慣れしている巧を強打するリアルのすごい美人は、デジタル化されて視覚表象されることが可能であるように、肉体性はきわめて弱い。

後半部において半ば唐突に挿入される二人のヒロインの邂逅、ここでは両者の魅力としてヒナの大きなおっぱい、栞の足の綺麗さがそれぞれ確認し直される。「じーっと栞」はまなざされ、ヒナの体は「ぷにぷにと柔らかそうで思わず触ってみたくなる」。触覚と視覚が並列された。どちらがより物語にとって本質的な要素か、という検討が改めて要請されているのは間違いない。

兄は妹を守る。物語は物語の現実だ。これは借金返済の戦いだった。さらに、異世界ファンタジーを内包する構造のため、戦いの中に戦いがある。内部の争いはアルバイト=クエストという与えられたルールに従い発生するのだから、テンプレに寄り添い容易に黒幕を生み出すことになる。勢いここで、安易なテンプレの流用と批判するのは間違いだ。本当の戦いはここにはない。ゲーム内部のスペクタクル化された戦い/イベントは、ゲームでありつつ敵の生成という闘争の簡単化を含め、二重の幻想であることは明らかであるし、また、巧とヒナの隣の部屋=隣の世界の住人である栞とのラブコメは超視覚的幻想、下層レイヤーの出来事として裁断される。

故に真なる戦いは、「金」を稼ぐこと、部屋に電気を流すこと、借金を返済すること、「明かりを灯」し暗闇を晴らすこと、ヒナが眼球を取り戻すこと。これは妹のための戦いであり、兄は妹を守らねばならない。そのためには「金」が必要だ。綺麗事で隠さずにわざわざあえて「金」と叫び「金」にこだわるのは、普段視えない金というシステムを前景することで、戦いのもととなる不安や苦しみに、安易な黒幕の設定ではない回答を与えているからだ。視えないものの周りを旋回し、物語に電気を流す。残された課題は、記号の盲目性。いまや豊満な身体性に繋がれた兄-妹の関係の健全化。

借金は蒸発した「父」の残したものであり、家族という近代的システムの亡霊に苦しめられている彼ら兄妹にとって、借金を返済することは、消え去ってなお憑く父を祓い殺すことである。「父」に局所化された家族を滅ぼせ、斜線を引かれた近親相姦には退場願う。

けれど暗闇はいまだ晴れない。ヒナの「残念な美的感覚」はラストシーンで再確認され、妹は兄に「迷わず飛びついた」。いまだなお。