『まよチキ!』

まよチキ! (MF文庫J)

まよチキ! (MF文庫J)

氾濫するラブコメに固有性を与える。この作品はこうで、この作品はこう。ほら、全然違うでしょ。しかし、ラブコメにおいて男の子と女の子のいちゃいちゃした話が求められているならば、そもそも固有性なんてマジどうでもいい。形式を模倣し表面だけ異なるものが多産される。どうせ少数しか読まないのだから、この体験は必然的に特権化される。特別な作品なんて端から存在しなくても、ぼくにとってはこの本が特別なのです。故に、埋没しうるこの読書体験を覚えておくために、ヒロインの固有名が刻印されるタイトルが流行した。縮小再生産の中の僅かなかけがえのなさを、せめてラブコメ=ヒロインの次元で肯定するために。
まよチキ!』もまたそのような類似した形式を他の多くの作品に見出すことのできる作品ではある。男装した美少女執事とともに繰り広げられる賑やかな日常は、洗練された最先端のラブコメとして記憶されることになるかもしれない。けれどこの作品のかけがえのなさを肯定するために、ぼくが萌え狂うことになるヒロインの名を出すのはよそう。むしろ主人公の「坂町近次郎」という名前こそ、ぼくらにとっては重要である。「ジロー」と呼ばれる彼は、MF文庫Jが量産するラブコメ主人公の優秀な弟であるから。
ライトノベルあるいはラブコメは、無限にエロゲーに憧れつづける。たくさんの女の子と一緒にしあわせな学園生活を送りたい。しかしここで夢見られる「たくさんの女の子」は選択肢によって物語が分岐するゲームのシステムに依存する、可能性のハーレムである。単線的に進まざるを得ないライトノベルというメディアにおいては、このシステムの差異は絶対的で、ときに強いられるある種の決断にぼくらは大きな苦しみを味わった(桐乃……)。けれど、あるいはだからこそ、ライトノベルの主人公はこれらシステムの差異を彼ら固有の能力に押し込むことになった。能動的選択が不可能な中で、いかに女の子といちゃいちゃするか、それだけのためにラノベ主人公は進化してきた。砂戸太郎はマゾヒストであり、遠山キンジはヒステリアだ。両者とも女の子との接触にコンプレックスを持っており、治療的な行為と称して女の子との受動的な接触が、積極化される。「選択肢がなくても去勢されているわけじゃないんだ!」と、ゴミ箱に入って四肢を喪失した小山萌太は手も足も出ない状態であっても、箱ごと浮遊してみせることで力強く主張するだろう。
砂戸太郎の弟ジロー、遠山キンジの弟近次郎、つまり坂町近次郎もまた、女の子に近づくと鼻血を吹き出してしまうという能力(?)を持っている。そして、洗練されたラブコメであるこれら作品では、このシステムを折り畳むための能力が女の子を守る力にもなっている。格闘狂の母と妹にサンドバックにされ、女性=鼻血と刷り込まれたジローの打たれ強く頑丈な肉体。物語がいったん閉じるために要請される偽装された戦いの際、これらのコンプレックスは主人公のカッコよさとして逆転する。ラブコメ最先端は萌えるだけじゃなく燃えるのでした。
女の子といちゃいちゃするために巧妙にデザインされた主人公の活躍により、ようやく読者に回路が繋がりヒロインに萌えることができるようになります。先ほどラブコメにとって最も大事なものがヒロインの名前であり、「彼女たちが何々する」というタイトルが流行ってると書いた。ヒロインってマジ大事だよね。でも『まよチキ!』。あとがきによれば「迷える執事とチキンな俺と」の略であるこのタイトルは、多くの示唆をぼくたちに与えてくれる。ラブコメにとってヒロインの名こそが刻印されるべきだとして、ここにそんな気配は微塵もないし、まして執事って萌え属性すら無視されてる。ってか、「迷える」と「チキン」という部分がタイトルとして浮き出されている。そして「まよチキ」という四文字タイトルから再現できるのは「迷える○○とチキン〜」くらいで執事は完全無視。そもそもどうして略したのか。
迷える執事とチキンな俺が出会う物語=ラブコメが、誰か迷う者とチキンとの出会いとして略される。半ば強引な四文字化は、ラブコメ自体が持つ構造化と同期し、作者の徹底性が示されている。執事系女子という属性は切り捨てられ、ただ構造だけが残る。彼女はただ迷っていればいい。そして何処かにチキンもいるらしい、と。タイトルの由来をあとがきに書き記した著者、あさのハジメは相当クレバーにこの構造を利用している。
模倣されるテンプレとかラブコメの構造とか、いろいろ繰り返してきたけれど、そろそろテンプレを再現してみます。
少女は男装してるし執事であるけれどそんなことはどうでもよく、もっぱら彼女の迷いを知ってしまった男の子のコンプレックスを解消するためのレッスンとして話は進む。構造化されたラブコメは自律してラブコメを維持する。近づきすぎず離れすぎないようにバランスを調整する第三者が二人の関係を調整し、それができる権利を持つ女の子の配置も必然的に決定されるだろう。しょせん純粋な観察者なんて存在しないんだから執事の主である彼女もまたこのラブコメの関係性に絡みとられ、調整する暇もないヒロインとしてラブコメはさらに自動化するだろう。けれどそれはもう少し先のことです(二巻に萌芽が見えます)。また、主人公には能力の原因となった妹がいて、家=日常(/非日常=学園)の層の萌えを担当するけれど、彼女もまた男装執事と関わることで(ラブコメからは排除されつつも)日常と非日常の境は解消され、賑やかな空間が出現する。慎重にアレンジされ恋愛と化さない物語=ラブコメにさしあたりの区切りをつけるため、設えられた戦いによってヒロインの迷いは一応断たれ物語は閉じる。敵もまた娘への愛にあふれた近親者の企みなのだから、この悪意なき空間には全く愛が充満している。
完璧な構成。
かつて時代の空気が、多様な鋭さを持ち味にデビューした作家たちに書くことを強いたラブコメ、その気分を自ら規範化することでかつてない強度に満ち溢れたラブコメ機械が生成した、神作家。
さて、ラブコメ萌え要素は全く関係なかったが、二巻では執事性が強調された。物語が物語として駆動するためには、キャラを活性しなくてはいけないのだろう。
まよチキ!〈2〉 (MF文庫J)

まよチキ!〈2〉 (MF文庫J)