『恋敵はお嬢様☆』

恋敵(ライバル)はお嬢様☆ (電撃文庫)

恋敵(ライバル)はお嬢様☆ (電撃文庫)

男女二人では足りなすぎる。どこか黒幕めいたしたたかな少女が二人を遠ざけ近づけ笑っている。現代ラブコメはこのように描かれる。しかし、二人目の少女は、どうして彼らに干渉したのだろうか。計算高い少女は、どこか見下したように男を隷属させる。彼女の企みは一人目の女の子へのいたずらを延長させたものである。ぼくであるかもしれない男は耳を澄ました。少女たちの濡れ華やいだ声が空間に木霊している。かんけいの始まりの、おんなの子たちのたわむれ……
『恋敵はお嬢様☆』は三角関係のたんしょに百合らしさを見出し、それを展開して物語は開始された。しかし三角関係はホモソーシャルな関係を強化する。幕間で明かされるのはひとりの少年のお話――お嬢様という構造を接木された少年の姿ではなかったか。百合から少年同士の関係の強化へと、認識転換はダイナミックに行こう。
「お前ってラノベの主人公みたいだな?」自意識は物語を加速する。彼は自らがラノベ主人公であることに気づいてしまった。フラグは迅速に回収される。「初日に出会って隣の席になり、2日目には弁当の手作り卵焼きをもらい、3日目には夕焼けの空の下で一緒に下校――」これが一人目の少女との恋愛のコアである。あとはラブレターを出すだけだが、届く手紙をぼくらは知らない。破り捨てられるラブレター。ここから三角関係が始まる。お嬢様は恋愛を阻害する黒幕としてしばらく振舞う。次第に偶像化するメインヒロインはむしろ積極的に主人公とお嬢様の仲を取り持つことでより象徴的に行動し、物語は一応の三角関係を保ちながらも主人公とお嬢様の距離の接近、つまりお嬢様がお嬢様であることに焦点をうつしていく。
構造と自意識の対立の縮図がお嬢様という概念であることを思い出そう。前景した彼女の自意識は家によって排除される。恋敵としての両者の関係は半ば強制的に断たれてしまった。しかしまだなにも終わらない。連鎖する自意識の発動。主人公は覚醒する。俺は誰だった?
ライトノベルの主人公は理不尽を許さない。彼は説教によって唐沢鈴という名のひとりの少女を救済する。ライトノベルにおける説教は二重のナルシズムに蔽われている。俺が正しいその正しさは、言葉によるメディアが、言葉によって人を説得できることを描くという言葉への信頼=小説の自立の作用によって包括的に保証されているのだから。自意識が構造を覆い尽くした。構造の掛け金が外された眩しい空白の到来。革命は賭けられた。
可能的恋愛。一人目の少女の固有性は上記のカギカッコで括られたフラグであった。しかし同じ体験を二人目の少女とも経験している。一人目の少女のメインヒロイン性は、したがって既に剥奪されている。三角関係は解除されていたのだ。構造に対する違和感は構造が解除されると同時に溶解する。その余白には新たな構造の書き込みがなされるだろう。
どこか少年マンガめいた結末は、少年どうしの結びつきのつよまりとして。百合から始まるこの話は少女性を排除して終わった。